気概と誇りを持って、日本文化を継承する料亭旅館「金城樓」
料亭旅館 「金城樓」の心得
料亭旅館 「金城樓」の心得として掲げていること。それは、「この規模とこんなにも歴史を感じられる料亭は、ほとんど現存しない。だからこそ、お客さまが料亭を使うひとときを最高のものに。そして、金沢ひいては日本文化を継承する存在に自分たちがなっていく。」ことだと、5代目社長の土屋兵衛さんが教えてくださいました。
この言葉通り、まず入ると、建物の優美なことに圧倒し、細部まで行き届いた丁寧な仕事ぶりに感動することでしょう。
金沢市にある料亭旅館「金城樓」の建物は、前田家ゆかりのもので、庭や建物は当時のままに。芸妓さんの立ち振る舞いが映えると言われる「朱壁」(朱色の壁)や、障子と襖と天井までの空間に木彫を施す「欄間(らんま)」など、古き良き伝統も残しつつ、今日まで改修を重ねて、守ってきました。
「金城樓」の1000坪の建物の中では、100畳の大広間で婚礼ができ、1人でも料理を楽しめる個室も用意されています。料亭だけなく、旅館として宿泊施設を完備。ゆっくりと、金沢の文化を感じていただくために、「贅を尽くす」。このように、心得を守りながら、「金城樓」は125年余りを歩んできました。
金沢の文化の礎
初代の土屋九兵衛氏とこの建物の出会いは、九兵衛氏が現「金城樓」の3軒先で料亭を開業し、成功したことがきっかけとなります。そのとき偶然にも、前田家が建物を手放すという話があり、買い取って、料亭をはじめたことが「金城樓」のはじまりと言われています。このように、土屋家と前田家が交わることで、新たな歴史「料亭旅館 金城樓」が誕生するのです。
前田家は、言わずと知れた、加賀百万石の礎を築いた武将「前田利家」の家系。この前田家の存在がなければ、今に続く「金城樓」もなかったでしょう。それは前田家が「金沢の文化」を築いてくれたから。
この加賀百万石の時代に、金沢の文化は、茶の湯から始まり、茶室には銀閣寺からはじまる書院造、そして、和菓子、細工、工芸、料理、お酒と広がりを見せ、今も残る金沢の代表的な文化「九谷焼」「加賀友禅」「金箔」などとつながっていきます。
そして、料亭のある花街文化もこの時代から始まります。「花街」とは、花柳文化を指し、芸妓の花柳界と料亭がある街を言います。日本にはたくさんの花街が当時はありましたが、時代とともに衰退していきました。現在残る、日本の三大花街は、東京都に6つの花街、京都に5つの花街、そして、ここ金沢に3つの花街「茶屋街」があります。金沢の観光地として知られる「茶屋街」は「ひがし」「にし」「主計(かずえ)町」とあり、現在も芸妓さんが多くいらっしゃいます。夏の挨拶に、昔から料亭などお得意先に芸妓さんの名前を書いた団扇を配る風習があるそうですが、この金城樓にもたくさんの団扇が飾ってありました。今もまだ花街文化が息づいているということを感じる風景です。
努力を重ねて、進化を止めない
金沢に花街文化を途絶えさせないために、まずは、従業員が「文化の担い手」であるという意識で行動し、着物を日々着用します。そして、着物でのきれいな立ち振る舞いを身に付けるために、お茶の勉強会を月に1回実施しています。他にも、インバウンドを意識して、英語が対応できる従業員を雇い、どんなお客さまの声にも応えられるように準備されています。
また、従業員だけでなく、建物や事業も時代とともに見直し、東京オリンピックの際にレジャーがトレンドになったときは、旅館業を開始。そして、まさに最近、北陸新幹線開業をきっかけに、宿泊部屋を3から6部屋に増やし、併設する小料理屋を本店と差別化するために、天麩羅専門店「天金」へと変身させました。日本、世界のお客さまが金沢ひいては日本文化を楽しんでもらうために、そして料亭が長く続くために、試行を凝らしています。
料亭が手掛けるおせちの先駆けもこの「金城樓」で、お中元やお歳暮でも「金城樓」の味を楽しんでもらえるように贈答品もつくっています。宿泊サイトも自社独自のものを開発し、「料亭旅館」として、確固たる地位を築いています。
全ては、お客さまの喜びと文化継承のため。ここ北陸の風土で培った食材と水で、空襲もなく守られてきた加賀料理のレシピを受け継ぎながら、文化を継承することに想いを持ってくれる人を「金城樓」は今求めています。北陸新幹線など新しい時代の波に対して、文化の継承者が足りないということが現状のようです。
しかし、こんなにも文化を守ろうという想いを持った人が残っていることが、この加賀百万石の文化の素晴らしさだと思いました。未来への文化の懸け橋をここ「金城樓」で。